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2006/06/21

死刑が相当

山口母子殺害事件で最高裁は

1、2審の被告が当時18歳で更正の可能性が否定できないとした無期懲役の判決を

死刑を回避すべき決定的事情とまでは言えないと指摘し

無期懲役は甚だしく不当で破棄しなければ著しく正義に反するとの判断を示し2審判決を破棄し、審理を広島高裁に差し戻した

被告人は最高裁判決を前に

「罪は重く極刑以外ないが、生きたい。悪人のまま終わりたくない」と話したという

何とも身勝手な言い分ではなかろうか

罪も無い二人の命を奪いながら

自分だけは生きたい?

悪人のまま終わりたくない?

まるで無期懲役のままなら悪人でなくなれるような言い分だ

被告が本当に悪人を終わりにしたいなら

それは自らの命を持って罪を償った時ではなかろうか?

被告人は過去の判例から

事件当時18歳という未成年であったこと

殺害したのが二人であるということから

判決は無期懲役になると甘く考えていたに違いない

それが最高裁で弁論が開かれた時に自らの命が終わるかもしれないとはじめて思ったのだろう

そして、自らの命を守るために心にもない反省の言葉を述べたり

被害者遺族に手紙を書いたりしはじめた

被告が被害者遺族の本村さんにあてて書いた手紙を本村さんは開封していないという

その開封されていない手紙のコピーは弁護士によりマスコミに配られた

要するに「謝罪の手紙」とされているものは

本当に反省して書いたのではなく被告、弁護側が何としても死刑を逃れたいと思うばかりに行った猿芝居に過ぎないのではないだろうか?

裁判では

反省の言葉、謝罪の言葉や被害者遺族への謝罪の手紙を「反省」とし刑が軽減されることがあるが

口先だけで言うだけなら誰でも出来る

手紙を書くことなど容易い

それをもって「反省」とすること自体おかしな話だと思う

仮に、どんなに反省しようが何の罪も無く亡くなられた被害者は帰ってこないし

裁判は現実を厳しく判断すべきであり

見えない心の中の「反省」などということに判決が左右されるべきでは無いと思う

裁判では過去の判例に基づく判決が下されることが多い

今回も弁護側の最高裁の差し戻し判決へのコメントは

「過去の判例の死刑選択基準から大きく逸脱していて不当だ」というものだ

確かに裁判ごとに大きく判決が違ったり、刑期が大幅に違うことは問題だろうが

全て同じ判決だというのもおかしな話だと思う

事件の内容は全て違うわけで

殺人の場合

何人以下なら無期懲役などと決めつけてしまう方がむしろ異常ではないのか?

弁護側の理論の「3人以下の殺人なら無期懲役が妥当」というのであれば最初から裁判などいらないことになる

それぞれの事件を検証し裁判官が死刑が妥当であると判断すればそこに死刑判決が出ることは当然だと思う

そして、その際の間違いを無くすために3審制がとられているのだ

そもそも

3人以下の殺人が無期懲役で3人以上だと死刑になる可能性があるという判断基準こそ大きな間違いではなかろうか?

3人以上の殺害でないと死刑にならないとしたら

何の罪もなく殺された被害者の命の重さは身勝手な犯罪者の命の重さの3分の1以下しかないということだろうか?

むしろ、何の落ち度もなく殺された被害者の命の重さの方が身勝手な犯罪者の命より重く扱われて当然ではないだろうか

今回の弁護士の一人の安田弁護士は死刑反対論者だという

死刑は残忍だと言うが

被告のした殺人は残忍ではないのか?

死刑は殺人以外の罪に下されることはない

それも極めて残忍な犯行以外に下されることがないのが現実だ

被害者の人権を完全に軽視し、身勝手な犯罪者の人権だけを異常に保護することしか出来ない人間が弁護士資格を与えられていることにも多いに疑問を持たざるを得ない

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